月曜日。
勤労感謝の日で休日。
腹下しは治ったようで、お酒を飲んでも問題なしでありました。
「~ありました」と書いたのは、眠剤服用の時間から逆残して、20時くらいまでに飲みを終わらそうと決めているから。
たまにそうでない夜もありますが。
さて、昨日の項で書こうとしていた「ウチダさんたち」ですが、まずは内田百閒から行ってみよう。
かつてそういう名の作家がいたことは知っていたが、読んだのは30歳のころでしたかな。
よく憶えていません。
それ以前の実家住まいだったころ、週刊新潮とか文春でもポストでもいいのだが、父親が持ち帰ったそれらを読んだり読まなかったりしていたのですが、新潮の山口瞳『男性自身』というエッセイといかコラムは、いつも楽しみに読んでいました。
色川武大『怪しい来客簿』を絶賛していて、あいつにはかなわない的な論調で、なんだかとても嬉しかった。
「怒りをまっとうに鎮めた」
とか書いていて、へー、と思い、山口著作の『血族』とか『人殺し』とかを読んだら、確かに色川武大の8掛けのような感じを受けたのでした。
山口を潔い書き手だと思ったのです。
そのコラムで、たまに内田百閒の名前もでてきて、最高の読者を持つ作家、とか記してあって、そのことがアタマに残りながら月日は過ぎ、吉行淳之介が逝ったときの『男性自身』は、えー? おれより吉行が好きな者がいるのか、とびっくりするようなものでした。
文庫になってから読み返すと、週一連載の文量で収まるものではなく、そのときに何週か続いたのか、文庫になる際に加筆したのかは憶えていません。
で、話は吉行淳之介に飛ぶのですが、吉行のエッセイにも百閒の名はしばしばでてきて、育った家のすぐ近所に住んでいたが面識はないと記されていました。
吉行は岡山の生まれで、同郷の百閒を意識していたとおれは思います。
百閒『ノラや』に出てくる、いなくなった飼い猫をウオンテッドする手配書のようなものを読んで、「衰えた、読んでいられない」的に評していたが、後年に、あれは誤読で、名文であった、と訂正している。
いつも冷静な吉行には珍しいことで、そこでやっと百閒を読んでみよう、と思ったのですな。
夢をモチーフにしたと思われる幻想的な掌編がとても良かった。
『件』『豹』とか。
他にもたくさんありますが、いまはタイトルがすっと出てきません。
夢ものは、漱石『夢十夜』が有名で、おれも愛読したけれど、百閒はもっと不可解で、『夢十夜』の第十夜がもっとぶっ飛んでいるようなものだと思いました。
カフカの短編にも、意味不明に不気味なものがあって、(例えば『流刑地にて』とか)それとも違う。
かすっているとは思いますが。
あー、なんだかダレてきた。
すっとばしてインコンクルージョン。
百閒→吉行→色川、の線がおれには見えるのであります。
吉行『鞄の中身』、色川だとほぼ全部がそんな味わいでした。
さて、集中力が切れました。
内田勘太郎についても書きたかったですが。
今日はここまで。
明日も書きます。