MOJOkunの日記

2019年末にヤフーブログが閉鎖になるのでこちらに引っ越しました。

雨が降っています/訳者を信じるということ

日曜日。
休日。
小雨が降る中、スーパーとダイソーとドラッグウトアで、欲しかったものは手に入った。
スーパーは肴、ダイソーはトランクスの下着、ドラッグストアはトイレットペーパー。
列はできていなかったが、トイレットペーパーは売り切れ寸前で、おれが手にしたのはラスト3つのうちのひとつであった。

今日から無観客の大相撲春場所である。
観客がいても、力士同士がぶつかり合う音は聞こえるから、それより凄い音なのかな、とか、塩を撒くことで歓声をもらう力士の所作が空振りして、しらけないかな、とか思っているが、まー、観てみよう。
オリンピックで前倒しの野球開幕も、もうすぐそこで、これも無観客になるのだろうか。
12球団あって、各々の支配下選手を全部合わせると、かなりの人数になる。
試合に出たりベンチに入れるのは少数で、あとの者は外出禁止例とかに素直に従うのだろうか。
おれがその立場であったなら、毎日の厳しい練習の息抜きに、居酒屋くらいは行きたいとは思うだろう。

で、オリンピックはできるのかね。
毎日いろいろなところで感染者が出ている現状で、おさまりがつくのかね。
何をもって、おさまり、とするのかもよく分からないし。

白石昇が翻訳した、ナワラット・ポンパイブーン著『水の流れをやさしくすぎて』を、スマホで読めるようにして、作業所行き帰りの電車内で読んでいる。
著者はタイの超有名詩人だそうで、おれの読書経験からいうと、詩人や俳人、短歌の者の書く散文は、無駄なレトリックが少なくて良い感じなものが多い気がする。
そういうつもりで読んでいるが、聴き慣れない語感の固有名詞にまだ慣れていない。
あと、その詩人が出家した話であるようだが、仏教に疎いおれは、これを記したら、まずは「大乗仏教」と「小乗仏教」で検索してみようと思う。
確か、日本に伝わったのが大乗仏教で、タイやその近辺に小乗仏教が広まったと学校で教わった気がするが、おぼろげな記憶である。
訳者を信じるということも、読みすすめる上では重要ですな。
大江健三郎ノーベル賞を受けた際、評者は「詩的な文章がなんちゃら」とか言っていて、訳文が詩的となぜ解るのか、訳すやつによるだろ、訳者が詩的でないと、そうならないだろ、と思った。
そう思うのは、カフカには複数の訳者がいて、詩的な訳とそうでない訳がある。
おれは池内紀の訳が詩的だと思っていたが、あの人はわりと最近亡くなりましたな。
チェーホフも訳者は複数で、一方は『犬を連れた貴婦人』、もう一方は『犬を連れた奥さん』で、まー、好みにもよるが、前者なら読みたいが、後者ならスルーする人もいるだろう。
で、いまのところ、上記タイ国有名詩人の散文を訳したのは、白石昇しかいないようなので、白石昇の詩心を信じて読んでおります。

ではでは。
ここまで。
明日も書きます。