MOJOkunの日記

2019年末にヤフーブログが閉鎖になるのでこちらに引っ越しました。

ブルースがマイノリティの哀歌であることは、おれにとっては重要ではなく、音がセクシーであることが全てなんですな。

火曜日。

作業所は今日も切れ目なく仕事がありました。


さて何を書こうか。

「ブルースギター」のお題を設定して、連想してみます。

3コードの12小節ブルース進行は、わりとはやくから理解していました。

AがトニックならサブドミナントのDに上がってAに戻る。

そこからドミナントのEに行って、サブドミナントのDに下りてトニックのAに戻ってきてターンアラウンド。

その繰り返し。

ビートルズや拓郎にもこのパターンの楽曲がありました。

いま、ぱっと出てくる曲名は、吉田拓郎『また会おう』かな。

コードはセブンスの場合もあり、というか、15の夜におれが惹かれたのはブルースで奏でられるセブンスの和音で、言葉にすると「セクシー!」としかいいようがありません。

A7 D7 E7 での上記12小節を意識しながらAのマイナーペンタトニック・スケールでソロも弾けるようになったのは18歳くらいのときでした。

この12小節はおれには鉄板で、いまもそれが持続しています。

ところで、20歳のころにサンノゼステイツの学生寮で、手に入れた経緯は忘れているけれど、ギルドのサイド&バックがメイプル仕様のギターをラウンジで弾いていた記憶は、いま思うとヒヤッとするものです。

アフリカン・アメリカン系の学生たちは、ラウンジでおれが夜毎ブルース的に弾いていると、遠くから観察している風でした。

おれは彼らに近づきたかったけれど、バリアというか結界というか、そういうものが在ったなー。

聴いてくれて、Pretty good!などと声をかけてくれたのは白人の学生たちでしたな。

当時のおれはブルースの成り立ちや歌詞の意味などをほとんど理解していなかったから、こういう無神経なことが出来たのでせう。

40年以上まえのことですが、マイノリティの神経を逆なでするような行為であったと思います。

あれから何年も経ってから、ブルース関連のことが書かれた書物などを読みましたが、「そうなのか」とアタマで理解はしても、15の夜に「セクシー!」と閃いた感覚とそれはシンクロしませんでしたな。

ブルースがマイノリティの哀歌であることは、おれにとっては重要ではなく、音がセクシーであることが全てなんですな。

 

さて、900文字+αに達しました。

ここまで。

明日も書きます。

 

今夜の1曲。

上述セクシーとはすなわちこの音です。

おれには哀歌には聴こえません。

『Mississippi Blues』。

 


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