月曜日。
作業所は週初め。
先週土曜日は開所していて、部屋にこもるのは飽きたから通所し、いつもの取引先とは違う筋から来た仕事をしました。
院外薬局がお盆休みから開けて、朝、そこに寄って処方箋を手渡し、
「夕方にまた寄るから」
分包されった薬の残がギリギリだったので、忘れたらこまる、と念じ、無事にピックアップして帰宅しました。
今月は消化器内科にも予約があり、日時を忘れないようにしなければ。
さて、今日も「はやく更新しないとなー」と思いながら、ダラダラYou Tubeを見てこの時間。(22:30)
書き始めると何とかなるもので、今日もそんなふうです。
まー、嫌いなことはやらない性分だから、もしかすると、文を書くことが好きなのかもしれない。
ところで、おれが好む小説家は、文を書くのが好きなわけではない、と思っているのだが、実際はどうなんでせうかね。
百閒とか吉行とか色川とか。
書いて生きるうちにたまる澱を落とすような。
書くことが好きな者の文は形容詞を多用しガッツリ描写する傾向にあると思うがどうだろう。
だれもが投稿できるサイトにガッツリ描写の文が多い気がします。
書いている者しか気持ち良くないんじゃね?
とそういうサイトのまわりを20年ほどうろついて思います。
文にも流行り廃りはあり、ガッツリ描写系はいま的ではないと。
いまといっても30~50年まえからここまでを「いま」として。
谷崎潤一郎『春琴抄』は、作家も批評家も絶賛しますが、あの物語展開と描写は、いまだとくどいように思います。
佐助が針で自らの目を突き「めしいになりました~」。
それ以降愛欲に耽る春琴と佐助。
妊娠しても堕ろして延々とつづきます。
老婆のむかし語りを聴く、という設定は上手く効いているとは思いますが。
ワンクッション置いてガッツリ書かれているから文句をいわれない、というような。
この作には書いている人の嬉ションちびりを感じてしまいます。
あの時代に書かれたから良いのであって。
たぶん、おれが文学的な人間ではないからそう思うでせう。
さて、眠い。
ここまで。
明日も書きます。
ペンギンズバーという戦略にまんまとハマり、あの缶ビールを買ったものです。
へー、聖子ちゃん、ブルージーじゃんと。
いまも好きな曲で、ヘンなケチをつける気にはなれません。
Ryuzo龍藏のソロ・ギターでご堪能あれ。
おまけ。
澱落としを感じる作は、吉行淳之介『手鞠』です。